「生き残った白虎隊士 空白の二年間」

 

白虎隊における、本や文献がいろいろあるが

飯沼貞吉の生涯の中で、空白部分がある。

それは、鶴ヶ城落城から

これまでどこをどう探しても、

2年間の記録がないのである。

貞吉、本人も後世に何も語らなかった・・。

しかし、これは最近判明したことであるが

この空白の2年間に信じられない

事実が隠されていた。

会津藩は降伏をする。


会津の惨状たるや、酷いものであった・・。

歴史上の戦勝者なので、

埋もれてしまっているが

薩摩軍の、会津での強殺、強姦、放火、殺人など

狼藉ぶりはひどいものだった。

これがいまだに怨恨につながっている。


武家の女性たちはお城に入ると

迷惑がかかるからと、家へのこり、

敵が来ると、多くの家の婦女子が自刃した。

貞吉の従姉妹たちも皆自刃

女性なので介錯はない。皆自分の力だけで刃を立てた。

飯沼貞吉は自分がなぜ

生き残っているのかわからなかった

「なぜ俺だけ生きている・・」


「死に遅れた・・。」

「いつ自決しようか・・」

「はやく仲間のところに行かなくては・・」

おそらく日本の歴史上、この人ほど

自分が生き残ったことを後悔した人は

いないであろう。

捕虜となった貞吉は

尋問を受ける


尋問を担当したのは敵藩の長州藩士

楢崎頼三(ならさき・らいぞう)

楢崎は長州藩の中隊長、

戊辰戦争で先方隊を任される。

萩出身 明倫館で学び

吉田松陰の影響を強く受けた人である。


「お前は会津藩士か?」

「俺の担当は、脱走兵の護送だが、

間違えて会津藩士が混じっていたとは・・」


貞吉は「では殺せばよい」

「殺すのが嫌なら、私に刀を貸してください」と訴える。


「許さん!」「親から授かった命。大事にせい!」


楢崎は何か感じるものがあったのか、

「この男は見込みがある」として

貞吉を他に隠して、なんと長州(山口・美祢)へ連れていくのである。

そして長州で周りには隠匿しながら保護する。


会津人が長州人の世話になるなど、そんなことがあるのか?

愕然たる敵国である。

ありえない話である

しかも白虎隊士である!


長州も会津と闘い、藩士も殺されている。

長州側も根強い憎しみがある。

長州藩士は過激である。

会津藩士を保護しているなど周りに知れたら

楢崎は殺されていたかもしれない。


こんなエピソードがある。

楢崎家である日、酒宴が行われ、貞吉も同席するが、

横にいた人に、「会津で死ななくてよかったな」

と言われた。それを聞いた次の瞬間

貞吉は土間に飛び降り、刀で喉を突き死のうとする。

楢崎に止められる・・。

奥へ連れていき

「貞吉、いま日本は外国と対等に渡り合わなければならぬ。

今長州だ会津だの言うている時ではない、

この国の将来のために勉強せい。

勉強し、国を守れ」

と諭す。 貞吉にしてみれば、仲間は死に、

家族や他の会津藩士は青森の北部へ追いやられ、

餓死と凍死と闘う、地獄のような生活を強いられている。

長州で保護を受けているなど知れたら、

父や、母はどうなるであろうか・・


「なぜ自分だけ生きている?」 

という思いを貞吉は長く持ち続ける。


楢崎も貞吉の親に密書を送っている

「会津にも長州にも知られてはならないが、

あなたの息子を私が、匿ってている・・と」


楢崎も飯盛山で貞吉を助けたハツと同様、

命を懸けて、命を捨てた飯沼貞吉の生を

この世に留まらせるのである・・。


楢崎が、なぜ全く知らない会津藩士の少年に

ここまでしたのか・・、それはわからない。


ただ運命だったようにも思われる。


もう一つ驚愕の事実に、

楢崎隊の会津での戦闘記録を見てみると

あの政府軍の大軍のなかで、8月23日の戦闘場所が

あの白虎隊の戦闘日時と場所が一緒なのである。

恐らく白虎隊と闘ったのは、楢崎隊の可能性が

極めて高い。

(もちろんお互いそのことは知ることはなかったのですが・・)

なんだかよくわからないですが、、

恐らく、他の亡くなった白虎隊士の魂みたいなものが、


「貞吉お前だけは生き残ってくれ」


最年少の貞吉をこの世に残したのではないか・・

「生きて、俺たちの代わりに会津の未来を

見届けてくれ」と言ったような

なんだか、そんなことを感じてしまいます。

貞吉はその後、長州で2年間を過ごす。


謹慎中の身であったが、


その時に「テリカラフ」(日本初の新聞)を見た。

電信?? 「なんだこれは?」貞吉は電信というものを

初めて見た。

電信はアメリカ人モールスが1837年に発明

ヨーロッパでは1851年にイギリスとフランスの間で

海底ケーブルができた。

貞吉は電信の魅力を強く感じた。

今打った電信が、今日明日中にたくさんの人に知られる

「こんなことがあり得るのか?」

しかしこれさえあれば、もっと会津の城下の

戦火も皆に知らせることができ

逃げられた人もいたかもしれない・・。

そんなことを考えるのであった。


しかしそのテリカラフ、

見てみると、なんと白虎隊の自刃ことが

記事として書かれていた。

「彼らの死は名誉ある忠義」だと書いてあった


仲間や、自分のことである・・。

・・ぽつんぽつん・と雨が降って来た・・

テリカラフに雨が落ちた・・

いや雨ではなかった、自分の涙だった

会津を出て以来初めて泣いた・・


拭いても拭いても涙が落ちた・・。


しかし貞吉に生きる目標を

与えたのはこの電信だった。

貞吉は猛勉強をし、電信技師の道へと進む。


賊軍の藩・敗戦の藩、差別をされながらも

誰にも自分のことは語らず

貞吉は勉強をする。

ひたすら努力をする。


会津では「死にぞこないの卑怯者」と言われても

何も語らず、勉強した。

この人の悲壮は、、言葉にはできない・・。


明治初期の日本では、電信はもちろん何もない

一からのスタートである。

当時アジア諸国は電信は

イギリスやヨーロッパ諸国に電信開設を頼っていた

その代わり、治外法権、権利や運営は外国が

確保していた。

いわゆる植民地支配の手段の一つである。


日本は当初デンマークに依頼するが、

最初のとっかかりだけで、

あとは日本人独自で電信を吸収、

猛勉強で自力で海底と陸上の

電信を構築したのである。


貞吉は日本の電信開発に力を発揮する。

東京工部省に入所、日本中を転勤し各地で

先進技術を広めていく

日清戦争では大尉格として、従軍し、

苦難の末、電信設備を朝鮮半島等に広める。

この電信の礎はのちの日露戦争の勝利の原動力となる。

小国日本が、大国圧倒的戦力のロシアに勝利したのは、

作戦と情報戦で優っていたからである。

日本海海戦の時、ロシアのバルチック艦隊を発見、

すぐさま対馬の日本海軍に情報がもたらされた

その電信開発能力は世界でも対等に渡り合っていた・・。

貞吉は日本の電信の発展に貢献した。


現在日本は世界最高のネット通信速度、情報網を持ってるが

私たちの毎日使っているインターネット、電話など

この「生き残った白虎隊士」の力が1万分の一、

いや10万分の一ほど入っていると思う。

昭和6年2月21日に仙台にて永眠 享年78歳 


彼の生存が白虎隊の悲劇を語り継ぐことができた。

昔、「白虎隊は犬死だ」と言った、

救いようのない大馬鹿野郎がいたが


彼らは犬死などではない、

日本のどの幕末に関する話で

会津藩を悪く書いている文献はほとんどない。

後世の人たちがの、彼らの死を悼む気持ちが、

会津を悪く書けなかったのである。


白虎隊士たちはのちの会津藩の

歴史的な名誉を守ったのである。

話は変わって・・・・

私は、ひょんなことから8年ほど前に

出張で会津に行く機会がありました。

25年ぶりの会津若松だったが、

昔よく行った飯盛山へ行き、

白虎隊のお墓へ行きました。


小さいころには分かりませんでしたが、

白虎隊隊士は、歴史や、幕末だの理屈とは関係ない

「この子たちはただ会津を守りたかっただけなんだと・・。」

なんだかそんなことを感じさせられました。

飯盛山には今でも白虎隊士の

お墓が並んでいますが、少し離れたところに

飯沼貞吉のお墓もあります。

貞吉はほとんど語らず、他界しました。

しかし、恐らく白虎隊のお墓に並ぶことは、

許せなかったのではないかと思います。

飯盛山のお墓には、貞吉の骨ではなく、歯と髪の毛が入っています。

それは貞吉の負い目が、一生背負ってきた負い目が 

本人にそうさせたのではないかと・・そんな気がします。

この空白の二年間の話は、言い伝えにより、

本当に最近判明したことです。

会津が壊滅し、絶望の底から、生きる望みを見つけた貞吉ですが、

その志は現在にも受け継がれています。


「貞吉と同じく、若い人には、教育を・・」

現在、飯沼貞吉の実のお孫さんの 飯沼一元さんは、


東日本大震災で、街は壊滅、親を失しなった子どもたちのために


東北で、教育支援活動をしてる・・。


貞吉や貞吉を守った人たちの意志は


しっかりとこの平成の時代にも受け継がれています。

 

 

※今回で【番外編】は最終回になります。
株式投資の学校で、投資とは直接関係ない内容を書きましたこと、この場をお借りしてお詫び申し上げます。
しかし、番外編のコメントいただくのが本当にうれしかったですし、授業などで、お声をかけていただいた皆さん、本当にありがとうございました。感謝いたします!
これまで番外編お読みいただき、本当にありがとうございました。